レ・ミゼラブル

原作の挿絵よりコゼット

名高いヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」を読んだのは中学一年のとき,たぶん初夏のころだったと思う。それまで外国文学というのは子ども向けにやさしく書き直されたものか,あるいは少年文学にジャンル分けされるものしか読んでなくて,背伸びしたい気分でいっぱいだった田舎出の少年としては,なにか大人のものを読んでみたかった。たまたま学校の図書室の棚にあった河出書房の世界文学全集のひとつに目を留めて,挑戦しようと思ったのだ。あの頃の少年は何でもやってみたい気分でいっぱいなものだからね。

ともあれ読んだ。豊島与志雄あたりの翻訳ではないかと思うが,今の本からすると考えられないほどぎっしり細かく字が詰まっていて,しかも漢字が多い。小さい頃から家にあった文庫本でシャーロック・ホームズのシリーズなどを読んでいたし,死んだ祖父が読んだらしいぼろぼろの吉川英治の「三国志」も楽しんでいたので,読むこと自体の抵抗はなかったのだが,なんとも息の長い運びには,今は記憶の彼方ながら「なんだこれは」みたいな感覚を覚えていたような気がする。

たとえば物語の後半の主人公のひとりマリユスは,悪党のテナルディエを亡き父の命の恩人だと思い込んでいて,その勘違いがストーリーにはらはら気分を盛り上げるわけだが,そのための背景説明が長い。父のポンメルシー大佐がワーテルローの闘いでナポレオン軍の将校として負けて負傷する話の前に,ワーテルローの地についての長大な解説が入る。あるいはマリユスが市街戦で傷を負ったとき,ジャン・バルジャンが彼を背負ってパリの下水道を逃げる有名なシーンのために,「巨獣のはらわた」とというパリの下水道の歴史についてのこれでもかという長い記述がある。19世紀イギリスの疫病や衛生状態などについてかなり勉強したいま,読み返すとなかなかこれは面白いのだが,なにせ筋を追いたい中1の少年には邪魔で仕方がなかったと思う。でも読み飛ばすのは癪に触る。あんこに行き着く前に饅頭の皮をしかたなく食べているような気分で読んだはず。

そうやって砂丘の砂に靴を取られながら歩いて目的地を目指すみたいな足取りで読んでいって,マリユスとコゼットの純愛,老いたジャン・バルジャンの悲しみと喜びと二人への祝福という大団円が近づくにつれて,熱に浮かされたように没頭してしまっていた。読み終えたときなど,すっかり恋物語にのぼせてぼんやりと夢を見ているませた少年になっていたはずだ。それが文学読みの始まりだった。レ・ミゼラブルも3回ほど読み返し,人生経験と学びを重ねて,ようやくユゴーという作家が語ろうとしていたのは,市民革命の時代を主導した合理主義や社会の改良をめざす啓蒙思想に根ざす人類愛なんだと思うようになった。