コロナウイルスはなぜ石けんや洗剤で殺されるのか—高校化学のレベルで解説

この文書は,メディアや広報を通じて推奨されている,新型コロナウイルスを防ぐために石けんなどでよく手を洗うことについて,その意義を科学的に解説するために書かれたものです。暫定版の段階で,医学,薬学,生物学の専門家,教師の方々を含むたくさんの人から訂正すべき点や不備な箇所を指摘していただきました。個別にお名前を挙げることはしませんが,まず最初にお礼申し上げます。(小波秀雄)

COVID-19/SARS-CoV-2 Resources (Protein Data Bank) によるアニメ

  洗うことでウイルスが流されるのではない

世界中で猛威をふるい始めている新型コロナウイルス感染症(COVID-19,以下「新型肺炎」とします)の予防対策として,手洗いの励行が叫ばれています。インフルエンザ予防でも,このことはずっと言われてきているのですが,これに対してやや懐疑的な感覚をもつ人もいるように思われます。「ただ手を洗うだけであの怖いウイルスを撃退できるわけ?」とか考えるのは,たしかにわかります。だって簡単すぎるじゃないですか。汚れを落とすようにウイルスを洗って取り除くなんてね。「そんな誰でもできることじゃなくて,もっとしっかりした対策を政府はとれよ!」という声も散々流れてきました。レイヤーのちがう話をごっちゃにしているとは思いますが,気分としてはありうることでしょう。

さて実は,新型肺炎やSARSのウイルスのようにコロナウイルスと呼ばれているウイルスは,石けんや洗剤でしっかり「殺される」のです。実はウイルスは生物ではないので,「不活化」されるのですが、ここでは比喩的に「殺される」と書いておきます。とにかく、やつらは石けんなどによって感染力を失い増殖も不可能になり、急速に分解されてしまいます。洗って流されるとかいうのとはわけがちがうんですね。もっとも,石けんがないときにはとにかく水で洗いましょう。ただし,後で出てくる石けんによる手洗いよりも時間をかけて1分以上ていねいに。

ここでは,高校の化学で教えるコロイドの知識を使って説明しますので,どうぞ自信をもって手洗いに励んでください。あなたやご家族が感染する確率は格段にへるはずです。なお,下のすべての図は,Wikipedia などのパブリックドメインのものか,筆者の小波が作成したものです。

コロナウイルスのかたち

右の図は,ウィキペディアに掲載されているコロナウイルスの外形を示した模式図です。実際に確認できるのは,色のない灰色の顕微鏡写真で,こんなものが見えるわけでありません。いろいろな証拠を元に想像して,わかりやすく表現したものと思ってください。

灰色の部分は脂質でできた膜で全体を覆う袋のようになっており,エンベロープと呼ばれています。赤いのはスパイクタンパクと呼ばれるタンパクです。膜をよく見ると小さなオレンジ色のつぶつぶがありますが,これは膜タンパクと呼ばれています。

まるで毛糸で作ったかのような造形ですが,ウイルスの「本体」はこの中に隠れています。その本体とは,RNAという核酸です。膜を断ち割って,中身を覗いてみましょう。


上の球体を割ったものが右側の図に示されています。脂質の「殻」の中にピンク色のらせん構造が見えますが,これがウイルスの本体の RNA(リボ核酸)です。核酸というと遺伝情報を伝える二重らせんのDNA(デオキシリボ核酸)がよく知られていますが,それよりもっと短くて,らせんもシングルです。細かいことをいうと鎖の「はしご」部分にある糖も少しだけ化学構造がちがいます。

ウイルスでない一般の生物の場合にはDNAが自分を複製するための遺伝情報を持っているのですが,コロナウイルスの場合にはRNAが遺伝情報をもっていて,それによってウイルス自身が複製されます。

人間のDNAが強い放射線で破壊されると細胞分裂が不可能になって死んでしまうことがあるように,コロナウイルスもこのRNAがウイルスのもっとも大事な部分なんです。洗剤はウイルスのエンベロープをぶち壊して,保護されている大事なRNAをむき出しにしてしまうので,結果としてウイルスは「死んで」しまいます。

コロナウイルスは脂質二重層膜をかぶっている

 ここまでコロナウイルスのRNAを覆うものを「膜」とか「殻」とか書いてきましたが,正確には「脂質二重層(膜)」といいます。下の図のウエハースみたいな形のものが,脂質二重層膜の構造を描いたものです。二重層という意味がわかりますね。なお「脂質」というのは脂肪のような物質の総称です。聞きなれないかも知れませんが,「タンパク質」が卵白のような物質,「糖質」が砂糖やデンプンのような物質を総称していると考えればイメージがわくでしょう。ここで注目している脂質は,リン酸と結合しているのでリン脂質と呼ばれています。



脂質二重層膜の構造

 この膜がどんなふうになっているのか,詳しく見ることにしましょう。Wikipedia を探すとリン脂質(Phospholipid)の項目にわかりやすい絵があったのでお借りします。

脂質二重層膜から脂質分子1個を拡大

「頭」の下に2本の「足」をぶらぶらさせた形の分子がユニットになっています。頭のところには負の電荷を帯びたイオンがあり,水になじみやすい親水性の構造をもっています。一方,足の部分は炭化水素の鎖でできていて,水をきらって弾く傾向のある疎水性の構造になっています。このように長い分子が親水性と疎水性の部分をもつものは,高校の化学に登場します。そう,石けんと中性洗剤です。

石けんや洗剤の分子と膜を構成する分子は似ている

下は高校化学の教科書にある石けんの分子のようすです。原料の脂肪を水酸化ナトリウムで煮て加水分解してやると,こんなふうな脂肪酸のナトリウム塩ができます。なお,中性洗剤として代表的なLAS(直鎖状アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム)も似たような構造で,頭の親水性の部分がスルホン酸という強い酸のナトリウム塩になっています。

さて,この分子は次のような特徴をもっています。まず左側が,炭素と水素だけの鎖になっていて疎水性,つまり水と仲の悪い部分になっています。水と仲が悪いということは,油と仲がよいということでもあります。右端には電離してイオン対になった部分があります。電離してしまうと,どんな物質でも水によく溶ける,つまり親水性をもち,油とは仲が悪くなります。このように一つの分子が水と油に対する相反する性質をもった部分からなっていることを,両親媒性といいます。

なお,この分子の鎖は分子の熱運動によってぐにゃぐにゃと動いていて,本当はまっすぐな棒状ではないことに注意してください。また陽イオンもつかず離れずで動いています。

石けんを水に溶かすと,分子どうしは下の図のように,水中で分子どうしが集まって「ミセル」という集合体になったり,あるいは水の表面で疎水性のしっぽを空気中にそろえて立てるようにして「単分子膜」を作って並びます。単分子膜はシャボン玉の表と裏の面にもできていて,あのデリケートな薄い水の膜を保護しています。

石けん水中にできる2種類の分子の会合体,ミセルと単分子膜

上の単分子膜と,最初に出てきた脂質二重層膜を見比べてください。脂質膜のほうは単分子膜2枚が,疎水性の部分を合わせるように重なった構造になっています。つまり,生物の細胞膜やコロナウイルスのエンベロープの主要な構造は,石けんや洗剤と同様の両親媒性の分子が作る二重層膜だったのです。

洗剤は脂質二重層膜を乱して破壊する


石けんや中性洗剤,つまり界面活性剤の分子がコロナウイルスを覆っているエンベロープの脂質二重層膜を構成する脂質と同様の両親媒性の分子であることは,その膜に入り込んで乱してしまうことを示唆します。実際,バクテリアを洗剤の液に入れてかき混ぜてやって,細胞膜を破壊することで,内部のタンパク質などを取り出すのは,生化学実験の標準的な手法です(実は私も,光合成細菌の研究グループとむかし共同研究していて,界面活性剤の細胞膜破壊についての研究をしていた院生をサポートしたことがあります)。コロナウイルスはエンベロープと脂質二重層膜をまとっているために,同じように界面活性剤でその膜を破壊され,膜タンパクなどもバラバラに分解されてしまうのです。この過程では,皮膚や唾液,あるいは細菌やカビなどに豊富に存在するRNA分解酵素がはたらいて速やかな分解が行なわれます。エンベロープが剥がされることはコロナウイルスにとって致命的なんですね。

界面活性剤は,手洗い用だけではなく,台所用洗剤,洗濯石けん,ボディーソープ,シャンプーなど,身の回りのきわめて広い範囲で使われています。それらがコロナウイルスを殺してくれることはとてもありがたいことです。

どの程度の濃さなら効くのか—泡立つ濃度ならよい

ごくありきたりの洗剤でコロナウイルスを退治できるというのは心強いことですが,それではどの程度の濃さで使えばいいのでしょうか?どんな薬も毒もある限度より濃くないと効果はないのですから,そのへんは気になります。

コロイドの科学では,ミセルができる最低の濃度を臨界ミセル濃度といって,界面活性剤ごとに数値が決まっています。とはいえ,そんなデータは簡単には手に入りません。でも大丈夫,簡単な目安があります。それは「泡立てられる濃度なら有効」という目安です。

泡ができるということは,単分子膜を生成するだけの十分な分子の数があるということですから,エンベロープを撹乱するには十分なはずです。ですから,しっかり泡立てて手を洗うというとても単純なことが,ウイルスから身を守るために十分な意味をもつのです。


どれくらいの時間をかけるべきか—20秒以上

効果的であるためには,ある程度時間が必要ですが,いくらでも長くというわけにはいきません。現在推奨されているのは少なくとも20秒間ていねいに洗うことです。くわしい洗い方については,わかりやすく図解したものがユニセフのサイトにありましたので,ご覧ください。


アルコールは「水の性質」を変えて膜を破壊する

ここまで洗剤の話だけしてきました。しかしコロナウイルス対策にはエタノールやプロパノールなども有効であることが分かっています。これらは界面活性剤としての性質はありません。どんな仕組みでウイルスを殺すのでしょうか。

石けんの分子がミセルや単分子膜を作るのは,両親媒性の分子であることによります。親水性の部分は水に入り込もうとし,疎水性の部分は似た者どうしで集まろうとすることが,その原動力です。さて,ここで水の性質そのものが変わってしまったらどういうことが起きるでしょうか?

エタノールはきわめて水と馴染みがよく,どんな濃度でも溶けることができます。一般に消毒用のものは70%程度のもので,これをコロナウイルスに直接掛けると,ウイルスの周りの水は大半がエタノールで置き換えられてしまいます。それまでエンベロープの二重層膜の親水性の部分が水と仲よくしていたのに,その相方が別のものに変わってしまうので,膜を支えている力そのものが変わってしまうことになります。この影響はエンベロープのタンパク分子にも及び,変性作用によってタンパクの構造と機能もダメージを受けることになるでしょう。

そんなわけで,アルコールは洗剤とは別の仕組みでコロナウイルスを不活化させることになります。注目したいのは,その濃度です。ある文献によると,SARSのコロナウイルスに対してはメタノール,1−プロパノール(n-プロピルアルコール),2−プロパノール(イソプロピルアルコール)とも70パーセントの濃度のものを使うと30秒程度で失活するようです。かなりの高濃度が必要です。

なお,アルコール消毒の利点は,使用したあと速やかに蒸発して,皮膚表面からなくなってしまうことです。石けんなどとちがって,すすぎの必要がないわけです。ですからどこにでも,瓶入りのものを置いておけば使えます。この便利さは得がたいものがありますが,けっして,エタノールは石けんより消毒効果が大きいというものではありません。どちらも十分な効果をもつのです。

ノロウイルスには洗剤もアルコールも効かない

ここまで,エンベロープをもつRNAウイルスである SARS, MERS, SARS-CoV-2(WHOは暫定的に 2019-nCOVと命名したが,この名前が正式に付けられた。なお暫定名が公的文書に残っていることもある)について説明してきましたが,これらと別のタイプに属するノロウイルスには全く効きません。彼らはエンベロープを持たないRNAウイルスですから,そこをアタックしてみても始まらないのです。そのため,ノロウイルス対策はもっと強力な次亜塩素酸ナトリウムなどが使われます。これはコロナウイルスにも有効ですが,皮膚には使えず,扱いには慎重さが必要です。ノロウイルスの場合の対策はもっと手間がかかりますので,ここでは手洗いについて評価した文献を示すにとどめます。


まとめ 手洗いだけではなくやれることをすべてやりましょう

石けんなどで手を洗うの有効性は,以上のように科学的な裏付けがあります。しかし,ウイルスの感染ルートはさまざまです。飛沫感染で顔に付着したウイルスは,手洗いではなんともなりません。咳などの飛沫で他人に感染させないためにマスクを付けることは,効果があるのです。今回のコロナウイルス SARS-CoV-2 では感染しても無症状や軽い症状のケースがあるという報告がありますので,適切なマスクの使用は意味があるでしょう。感染しても軽症ですむためには,十分な休息と栄養と適度な運動も必要です。他にもあると思いますが,どれもそれひとつで十分ということではありません。いろいろな行動の効果が相乗されることで自分や家族を守り,さらに他のすべての人を守ることになるのです。


混乱に乗じた「ニセ除菌剤」を見分けよう


このところ,ドラッグストアなどの店舗を回って,「新型コロナ対策」といった売り込みの商品を調べています。困ったことには,新型コロナウイルスに効くという触れ込みの商品で,効果が期待できないものもあります。また,ごくふつうの界面活性剤を入れて,あたかもコロナウイルス対策のための特別の消毒液であるかのようにうたっているものも見かけます。その棚が空っぽになっていることもありました。どうしたら見分けられるでしょうか?

簡単です。ボトルの後ろに印刷された成分表示を見ましょう。成分として界面活性剤が入っているものなら大丈夫です(どの成分が界面活性剤かはとりあえず検索してみましょう)。一般論ですが,成分表示が詳しくびっしりと印刷されている(全成分表示)ものはたいていオーケーです。 私が見たあやしげなものとしては,「焼カキ殻水」,「発酵乳酸」を成分とするもの,あるいは単に有効成分が「除菌剤,抗菌剤」としかなっていないものがありました。他にも根拠の疑わしいものが次々に見つかります。そういった製品に大手企業のものまであるのはきわめて残念です。