パトリック・ドゥヴィル『ペスト&コレラ』

ペスト&コレラ

近頃読んだとびきりの本です。

パトリック・ドゥヴィル『ペスト&コレラ』フランスの医学者・探検家アレクサンドル・イェルサンの伝記小説です。とにかくおもしろい。

ただ,フランスの小説らしい気取った語り口と思わせぶりな文章の組み立てが最初気になるかもしれません。翻訳もおそらく原文を活かして気取った文体で書かれています。が,そこでいやみを感じてはいけない。長い本はスロースタートでじっくり読むのが吉です。そのうち病みつきになることうけあいです。

アレクサンドル・イェルサン

主人公のイェルサンは1863年スイスの生まれ。彼が生まれる前に亡くなった父はアマチュア昆虫学者で,形見のメスと顕微鏡をのこしてくれた。イェルサンはそれに夢中になり,やがてドイツの大学で医学を学ぶ。しかし,当時のフランスの海外進出,とりわけアジアの探検記にも熱中していた。それがいきなりパリのパストゥールのところに飛び込んでしまいます。当時,パストゥールは,すでに偉大な科学者・医学者だったのですが,その頃に狂犬病のワクチン接種で,狂犬に噛まれて確実に死ぬ運命だった少年を救って,フランスのみならず世界の尊敬を一身に集めていた。

その偉人といきなり面接しちゃう。紹介者がイェルサンを気に入ってパストゥールに会わせて,即合格となり,偉大な科学者のもとで助手として働きながら大学の講義を聴くという生活を送ることになりました。

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ルイ・パスツール

えっと,探検の話は?そう,イェルサンは世界の未知の場所を冒険したいという望みも隠しもっているのです。それをおくびにも見せず,天才パストゥールの下で医学を勉強して,研究所でも頭角をあらわす。彼が研究者としてどれくらい優秀だったかというと,当時の研究者たちを悩ませていた謎の新型結核があったのですが,その病原菌をいとも簡単に見つけ出して博士号をとってしまう,それが25歳のときです。

その後,ベルリンに出かけて,結核菌の発見で有名なローベルト・コッホの講義を聴講して勉強する。ついでにフランス語に翻訳したノートをパストゥールのために作成してあげる。スイス生まれで独仏のバイリンガルの強みです。コッホの研究所の設計もしっかり調べて図面を作って,建て替えが検討されていたパストゥール研究所の新築に活かす。敏腕で役に立つ男です。
 と思えば,先にコッホの弟子の北里柴三郎たちが発見していたジフテリア菌の毒素を発見するという大手柄。ジフテリアの毒性って,細菌を食うウイルスであるバクテリオファージも絡んていてややこしいんですね。とにかく20代なかば過ぎで,すでにパストゥール研究所をしょって立つことを嘱望される若手の大スターになっていたわけです。そのままいけば間違いなくノーベル医学賞を取っていたでしょう。研究所で働いていた彼の同僚や後輩たちは,その後続々とノーベル賞を受賞したのですから。

ところが,イェルサンはなんと,船医になることを志望して,いきなりパストゥールたちのもとを飛び出してしまう!山に囲まれたスイスから出てきた26歳の青年は,ある日ノルマンディーの海岸に自転車で出かけていって,海を見た。それで海に憧れたんだって本の作者は書いているけど,まんざら真実とかけ離れた推測でもなさそうです。
 渋つらのパストゥールもイェルサンの決意の前には翻意させるすべもない。仕方なく推薦状を書く。推薦状も残っていますが,こんな有能なやつはいないというべた褒めの書きっぷりです。よほど惜しかったでしょうね。
 さあ,大パストゥールからの推薦状を受け取ったボルドーの郵船会社は,びっくりした。なんでこんなすごい人物がと目を疑ったことでしょう。しかしパストゥールじきじきの推薦ですから,乗船してくれれば宣伝になると思ったか,結局はホクホク喜んで採用した。そしてイェルサンはアジア航路の船医になるのですが,船長と同格の待遇で船室も立派。ベトナムのサイゴン,今のホーチミンとハイフォンとか香港を結ぶ航路などで働いていた。その間にも着々と現地の探検を進めているのです。

 折しも第二次世界大戦のヨーロッパ戦線は戦況は悪化しています。ついにフランスがナチス・ドイツに降伏してしまった時,イェルサンは気に入っていたベトナムのナトラン(ニャチャン)で船を降りてしまって,その地で病院を開く。金持ちからは金を取り,貧しいものからは金をもらわないで治療する赤ひげみたいな医者になって,すごい尊敬を集めちゃうんです。ドクター・ナムとかナムおじさんと呼ばれるほど親しまれていた。今でも彼の記念碑や立派なお墓がある,どころか,その近くの寺院では菩提として祀られているんだそうです。ちなみにパストゥールもメコン地方の伝統宗教であるカオダイ教の聖人だそうです。ベトナムの伝統宗教でも日本と同じく,えらい人を死後に神として尊崇するしきたりがあるらしい。

ナトランのイェルサン記念碑

 しかし,ドクトル・イェルサンの医学研究者としての仕事はまだまだ終わらない。戦争は続いています。日本とイギリスが駐留する香港でペストが大流行し,土砂降りの街の至るところに死体が転がる状況になっていた。そこでパリのパストゥール研究所はイェルサンに香港行を命じる。そこにはすでにコッホ研究所から北里柴三郎が来てたわけ。とはいえフランスからの国際的な医療支援としてイェルサンを受け入れざるを得ない。イェルサンも生来の熱血で売り込み,イギリスのチームと活動を開始するのですが,彼は体よくイギリスの病院から追い出されて小さな小屋で研究を始める。四面楚歌の中,パストゥール研究所とコッホ研究所という世界に冠たるふたつの医学チームの面子を賭けた闘いが,はからずも始まった。

さて孤軍奮闘のイェルサン博士。墓場に運ばれる予定の棺桶をもらい受けて病死者の解剖にとりかかった。得意のメスさばきでいちはやくリンパ節の病変を発見して,世界で最初にペスト菌を見つけた人になった。それがあって,ペスト菌はいま Yersinia pestisという学名になっています(実は当初,パストゥールの名を取って Pasteurella pestis と呼ばれていたのが,44年にイェルサンの名に変わったんだそうです)。なんでそんなにうまくいったかというと,ペスト菌は28℃前後でさかんに増殖するので屋外の死体ではよく繁殖していた。対して北里チームは人の体温に保った実験環境で進めていたということで,これは運というものですね。

File:Yersinia pestis fluorescent.jpeg
Yersinia pestis (蛍光で光らせている)

 なおイギリス人のローソン博士はイェルサンの発見を北里チームに教えたために,北里はおれたちが先に発見したと主張して論争になったともあります。日本とフランスは戦争においては敵国同士であり,北里はドイツのコッホの弟子ですから,パストゥール研究室からやって来た10歳下の青年科学者に対する敵愾心は非常に強かったはずです。
 ここらはいかにもありそうななまぐさい話ではあり,英文のウィキペディアにこのへんのいきさつが多少書かれています。北里側の言い分もあることでしょう。ともかくもイェルサンは,香港到着2ヶ月でパストゥール研究所に論文や病原菌を送ってワクチン製造のお膳たてまでして,さっさとナトランに戻ってしまった。

後年,イェルサン没後4年たって,香港での彼の記録に触発された小説が世に出ます。アルベール・カミュの名作『ペスト』。

La Peste by Albert Camus: Rba 9788447306886 Tapa blanda - Librería ...

 一方,探検家の魂もイェルサンの中で炎を燃やし続けている。ナトランの診療所での医業のかたわら,ドクター・ナムは付近の丘陵を渉猟していた。そうやって準備を整えて,現地のモイ族の助けを借りて西へ西へと山脈を越える探検に出た。辛苦のはてにたどり着いたのが,今のカンボジアの首都プノンペン。当時は小さな村落だったそうです。高度約 2000 m の山嶺を越え,熱帯雨林と広大な水田地帯を突っ切ること 3ヶ月,直線距離にして450 km 超の探検の旅です。

A: ナトラン(ニャチャン) B:ダラット C:イェルサンの墓地があるスオイザオ

イェルサンがインドシナ半島の南シナ海海岸からメコン川へと踏破することによって,インドシナ半島南部の陸路が拓かれることになります。この地もフランスが支配していた地域で,駐在の行政官が催した歓迎レセプションで,主役のイェルサンはとうぜん講演を求められます。初めての探検の報告を聴きに客が詰めかけています。しかし,ドラマチックな冒険や未開の男や女との出会いといった冒険譚を期待する彼らの前で,この探検家はルート上でおこなった緯度観測の精度の話ばかりしていたらしい。客は退屈して散々だったようです。科学しか頭にないイェルサン。
 さかのぼって青年時代のエピソード。パリで成功した息子に故郷の娘との結婚話を母親がもちかけます。母親に勧められてイェルサンが花嫁候補に出した求婚の手紙には,パリでの医学論争の話や考古学の話題ばかりで,求愛のロマンチックなセンテンスは一行もなかった。若きドクトル・イェルサンはあっさり振られてしまったわけですが,その朴念仁ぶりは生涯変わらなかったようです。とはいえ,こんな魅力的な人物もいないと思いますけどね。

ところで,ベトナム南部にダラットという高原の保養地がありますよね。湖が散在する美しい高原の盆地で,夏も涼しい場所です。NHK BSプレミアムの「世界ふれあい街歩き」でも最近取り上げられていました。
 イェルサンはナトランの地に農地を拓くために奥地まで探検して歩いていて,その高原にたどり着いたのだそうです。もちろん先住の部族はいるので「発見」とかではないですが,ほとんどのベトナム人も知らない奥地に,気候のよい高原を見つけた。現地の部族ともすぐになかよくなったようです。そこが気に入って,いまでいうリゾート開発を始めるわけです。そこがのちにフランス人の別荘地になっていった。その地は年をへて今にも残る美しい街となり,パストゥール研究所の病院が建ち,修道院もでき,晩年には彼の名を冠したリセ・イェルサンという高校まで建てられたそうです。ちなみに,今もダラットの特産として有名な高級野菜のアーティチョークはそのころに導入されたらしい。

ダラットの眺め

とにかくイェルサンがベトナムに残したものは半端でありません。ブラジル原産のゴムノキ,アンデス原産のキナ(マラリアの特効薬キニーネの原料),ヨーロッパのリンゴ,イチジク,プラム,アンズ,ジャガイモ,イチゴ(現在のダラットの特産品),インゲン豆,ピート,ニンジン,さらには乳牛や羊に至る,膨大な生物資源がこの地に持ち込まれて,産業化されていった。中でもキナは収益を生み,イェルサン自身の所有する土地は数万ヘクタールにも及んだそうです。

しかし,生涯独身で過ごし,驚くほど私欲のない人であったイェルサンは,遺言によって雇い人たちの終身年金の基金を遺し,他の全財産をインドシナのパストゥール研究所に贈りました。自分の遺体はナトラン近くにごく質素な墓を作って埋葬するように書き残したのです。

自分の葬儀について言い遺したことばは,感慨深いものがあります。

ベトナム式のささやかな葬儀をおこなってほしい。香,五十日の宴,白の旗。奉納の紙を燃やし,米飯の椀,ゆで卵,焼いた鶏肉,バナナひと房を祭壇にのせてほしい。ナトランとホンバ(Hòn Bà)の中間にあるスオイザオ(Suoi Dau),世界と自分の土地の真ん中に埋葬してほしい。

今なお名もない丘の上には白い美しい墓石が置かれ,毎年の命日には人が集まって故人を偲んでいるとのこと。ホーチミン市にはイェルサン・インターナショナル・クリニックという病院があり,イェルサン博物館もある。銅像もあちこちあって,すでに書いたように寺院では菩薩として祀られている。それらは名所として観光ツアーにも組み込まれているようです。

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ベトナムはフランスの植民地支配に抵抗して,ホーチミンらがフランス軍と戦ってついに追い出した(そのあとアメリカがしゃしゃり出て泥沼のベトナム戦争になるわけです)という歴史は多くの日本人が知っているはずです。しかしそのベトナムでイェルサンやパストゥールが今に尊敬され,その遺産が今に生きているというのは,この本を読み始めて初めて認識し驚きました。19世紀の欧米列強の帝国主義とアジアの植民地支配という教科書的な理解は,世界の歴史を考える上でいかにも浅いものがあります。この本でイェルサンの生涯を知ったことで,ベトナム人の真の友であった彼の足跡を辿る確かめる旅に出たくなりました。

Commemorating Dr. Alexandre Yersin, honorary citizen of Vietnam
イェルサン没後75年メモリアル行事 (Khanh Hoa News)
ベトナム政府発行の記念切手

追記(2020/08/30)

上の結びでは,フランスの植民地支配とアメリカの傀儡政権についてしか書いていませんでしたが,第二次大戦では日本は仏領インドシナへ侵攻してフランスからベトナムを奪ったのです。そのことをもって,日本はアジアを欧米列強の支配から解放したと当時の日本政府は日本国内に宣伝し,今でも同じことを主張する人がいます。

しかし,実際に日本軍がベトナムで行ったことは,ベトナム人への収奪と殺戮でした。そのことを書かないでしまったことは,私の無知によるものです。最近になって,日本占領下のベトナムがどのような状況だったのかを,資料に基づいて説得的に解説したブログがあることを知りました。これは大変貴重な記録ですので,下にリンクさせてもらいました。

「ベトナム大飢饉を知っとるけ? : あいこの愛国バラエティブログ ネトウヨの寝耳にウォーター」