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(グラスゴーのスラム街)人びとが住んでいる住宅は豚小屋にもできないほどきたない。どの部屋にも、男、女、子供がいっしょにつめこまれ、不潔とむさ苦しさでなにもかもが不快きわまる。住宅にはまず通風というものがない。また住居のすぐまわりには糞の山、排水はまったくひどく、あらゆる種類の汚物がたまりほうだい。このおぞましい住宅地区に都市の浮浪者たちが集まってくる。そして夜ごとその住民は外出して病原菌をまき散らし、ありとあらゆる犯罪と破廉恥が町じゅうにばらまかれる
路地裏の狭い一室に何人もの家族がひしめき、一つのベッドを二〜三人で使うことも珍しくはありませんでした。便所もなく、バケツのようなのもので用を足すのですが、汚物はこっそりと窓の外に捨てられるのが普通だったようです。その窓の下には、藁やら馬糞やらゴミやらがうず高く積み上げられていましたから、悪臭がたちこめ、虫がわき、不潔きわまる環境だったのです(金井一薫,『ナイチンゲール看護論・入門』)
国内の多くの地区では、いまでも非常に不潔な井戸水が家庭用水として使われている。そして、ひとた伝染病が発生すると、ほとんど確実に罹患するのは、そうした水を使っている人びとなのである(ナイチンゲールの論文から)
「病院のベッドのリネン類や家具は汚れてなおざりにされています。テーブル掛けや調理場のリネン類はぼろぼろで不潔で、満足なシーツ二~三枚がある以外は皆、風に唆られています。椅子のカバーは銀で止め付けられていて洗濯もできないので汚れが浸み込んでいますし、毛布や枕も、失禁患者にゴムの防護布なしで使用したために腐っています」
「このホームには、女性責任者も針女も臨時看護婦も夜勤看護婦もいませんでした。(略)...私は、コックのジョンとスミス看護婦を除く女中と看護婦は全員替えるべきだと思っています」
ロンドンの40の救貧院では21150 人の病人や虚弱者の世話に、救済貧民でない141人の有給の看護婦があたっていた。
有給の救貧院看護婦には、病院で教育を受けたものがほとんどいなかった。しばしば、掃除婦や洗濯女が有給の看護職に昇進した。
有給の看護婦は、救貧法施設の〈看護〉要員の大半を構成する多数の無給の貧民看護婦の監督に多くの時間をとられた。これらの貧民看護婦の水準は、きわめて雑多であった。
彼女ら(有給看護婦)の年俸は、1866年当時、12ポンドから50ポンドまでであった。
貧民看護婦はよく患者の食事や発酵酒を盗んだ。さらに彼女たちの中には字を読める者がまれで、そのために与薬はいい加減になされていた。
老齢の貧民も看護に雇われていた。長期間、救貧院にとどまることが多かったからである。彼女たちは体力が弱くて、患者を持ち上げることすらできない者もいた
いく人かの病人が自分たちの室内便器で物を洗っているのが見られた。病室では共同で2,3本のタオルが支給され、週一回交換されていた。
フランス,イタリア,スイスをめぐるグランド・ツアー(17-18歳)。イタリアに長期滞在
人口の統計,病院と慈善施設に関する詳細な記録
フローレンスは一緒に散歩しながらイタリアの歴史,経済,政治についての話を聞き,崇拝の念を抱く。
フランスの名だたる文学者,政治家,科学者のサロン。以後も交流が続く。
パーマストン卿(若手政治家) エンブリーの屋敷近くの隣人として家族で交際。内務大臣をへてクリミア戦争のとき首相になり人気政治家として成功。義理の息子はアシュレ―卿
シドニー・ハーバート(若手政治家)と妻エリザベス(リズ) フローレンス17歳のときに出会う。貧しい人々のための病院を創設して,訪れたフローレンスの将来を決定付ける。後に陸軍の長官,大臣を歴任
17歳のとき,神のお告げ—「自分の力を神に捧げるように」(7年後に神の求める使命を病院で働くことと悟る)
姉と母はヒステリックに反対。父も怒り
「看護婦は、注意深く、能率的で、しばしば上品であり、つねに親切であるが、ときとしては酔っばらいだったり、身持ちが悪かったりする」(看護覚え書)
当時の病院では、ジンやブランデーなどが病棟にもちこまれることはめずらしくなく、それは患者ばかりでなく看護婦にも共通していたからです。また、男子病棟の看護婦が男子の病室に寝泊まりすることすら公然とおこなわれていました。信じられないことかもしれませんが、看護婦の泥酔と不道徳は、当時の「常識」だったのです。(長島1993)
1849 エジプトに転地療養の帰りにドイツのカイゼルスヴェルト学園に2週間滞在し,生涯の道を確信。(カイゼルスヴェルト学園は女性のために開設され,病院と学校施設などを備えた医療・福祉に関する総合教育施設)
学園の病院で行われていた看護婦養成のための教育について学び,論文に総括
リズ・ハーバートの尽力による。 在職中にパリなど各地の病院を視察して研究を深め, 長年のアイディアを活かして病院の改革に成功した後, 辞職(1854/10)
【ナイチンゲールの発案の例】ナースコールの導入,病人の移送と食事運搬のためのエレベーターの設置,経理の合理化,その他多数
このときの1年間の経験と実績で,ナイチンゲールは「看護婦とはどうあるべきか」,「医療における看護の役割」について,ほぼ基本的な認識を得たと言える。
負傷して倒れた兵士たちに対して,なんら準備体制がとられていない。外科医も手術助手も,看護婦も足りない。傷を医師に触れられることもなく1週間放置される兵士,悪臭にみちた船内を巡回する外科医に死にものぐるいでしがみついても,厄介者のように振り払われて,苦しみながら死んで行く兵士・・・
「一方,フランス軍の医療体制は整っており,医師の数も多く,慈善修道会の尼僧たちの援助も受けている。彼女たちは献身的で優れた看護婦である」
1854/10/17 イチンゲールに看護団派遣の指揮を依頼
4日後,ナイチンゲール(34歳),38人の看護団の団長としてコンスタンチノープルへ出発。
ナイチンゲールの病院には次々と傷病兵が運ばれてきた。クリミアのイギリス軍は死にはじめていたのだ。壊血病、赤病、凍傷、飢えがセバストポリを見下ろす高原の野営地で広がりつつあった。
回廊にはベッドが並んでいた。といっても、そのほとんどがタイルの床にじかに敷かれた、わらを詰めただけのマットレスだった。病人たちは壁に頭を向けて横たわっており、その足先から反対側のマットレスまでほんの1メートルほどしか離れておらず、隣のマットレスとはかろうじて50センチほど離れているだけだった。部屋の中でもベッドの間隔は同じぐらいで、ありとあらゆる隙間を利用すれば、建物全体でほぼ3千人の患者が収容できる勘定だった。一番多いときで2500人の患者がいた。死亡率もそのときが最高で、日に70名が死んだこともあった。(Small p.35)
サザランドと同僚たちは敷地内に放置されていた動物の死骸を埋め、建物の外の庭を舗装し、水はけをよくし、上水道をきれいにし、建物の下を走っている下水溝に水を流す設備をつくった。彼らは部屋の壁に害虫駆除剤を塗布し、建物の屋根の部分で効果的に換気が行なえる箇所に開口部をつくった。また、しぶる司令官をせっついて、それぞれの回廊に二重に並んだベッドの列を一列にするよう医師たちに命令させ、看護兵にはゴミ箱と尿瓶を毎日空にさせた。(Small p.61)
スクタリの死者数が減ったのは何であったのか? ナイチンゲールは,不十分な食事や過労が傷病兵を死に追いやったことを 重視し,本国からの食糧補給で致命的な失敗を犯した軍部の責任追及へと, 政府,軍,女王を巻き込んだ係争に飛び込み,王立衛生委員会を開かせようとする。そのための報告書は彼女が執筆し,同時に膨大な秘密報告書の作成に取り組んだ。
政治,道徳科学に,自然科学で大いに役立つ方法,すなわち,観察と計算に基礎を置く方法を適用しよう。
さまざまなデータを集計した時に,ベル型曲線が出現することを発見。社会や人間に正規分布が当てはまる!
この時代,人が死ぬのはなぜかということはまだわかっていない。栄養不足,過労,腐敗して悪臭を放つ空気(瘴気)が 病気をつくると思われていた。
ファーの「発酵病」( Zymotic Diseases):腐敗から生じた化学物質が空気や水によって運ばれて起こす病気を想定。ナイチンゲールもその説に立ち,かつ防いだり緩和したりできるものであると考えていることが,論文の用語( Preventible or Mitigable)からわかる。
「この冬にスクタリに送られてきた兵士たちが亡くなったのは、瀕死の状態になってからようやく送られてきたためです―今では手遅れにならないうちに送られてくるので、彼らは死ぬことなく快 復しています」 (1856/11 パンミュア宛の手紙)
上の1859年の論文にはどうして "Preventible or Mitigable" と書いてあるのだろうか?
もしも病死が防ぎ得たものであったなら,それなのに多数の兵士が死んだということは,何を意味するのか?
報告書を作成するためにファー博士と行った死亡統計の分析の議論の結果,ナイチンゲールは死者を減らした真の原因を 理解したと考えられる。
サザランドの衛生委員会による徹底した衛生環境の改善が功を奏したのだ!
栄養のある食事,休息,暖かいベッド,清潔な体,選択された服,それらを整えることが病気の治療になる と,ナイチンゲールは最初信じて行動した。
だが,その間にも兵士たちは次々に死んでいた。その状況を一変させたのは,実は外部的な衛生環境の改善だった。 最初に自分が信じていたやり方では,人の死を救えていなかったのだ。
そのことを,自分自身でデータを解析することによって理解したナイチンゲールの苦悩はいかばかりであったろうか。
ファーとともに異なった地域での死亡率の差を分析し、とくにクリミアの前線の病院とスクタリという後方地での病院との差を分析した結果、2万5千を数える軍のうち1万8千人をも死なせてしまったおもな原因は,衛生状態の悪さだった。
その中でも群を抜いて悪かったところ、1854年から1855年にかけての冬に衛生状態の悪さで5千人もが死んだのはフローレンス・ナイチンゲールが拠点としていたスクタリの病院だった。衛生委員団が来る前の5カ月のあいだ、1854年11月から1855年3月のあいだにナイチンゲールが管理していたのは病院と呼べるものではなかった。それは死の収容所だった。(Small p.122)
この時期にナイチンゲールがファーに出した手紙はすべて破棄させて,自分に来たファーの手紙も焼却している。 そこには何が書かれていたのだろうか?
その後のナイチンゲールは,公衆衛生学を完全に身につけて活動した。その知識は「病院覚え書」にも活かされ, 後に聖トマス病院の改築と看護学校(ナイチンゲール学校)の創立のときの病院建築においても,十分に発揮されている。
さらにいうと,イギリスの充実した公的医療制度も,彼女の理想の上に作られていったといえよう。
ナイチンゲールは弟子の本の原稿にあった「子どもたちのミルクは沸騰させなければな らない」という箇所を赤線で消している。
「ミルクをすっかり沸騰させるのは疑問です。沸騰したミルクが嫌いな「子ども」はとてもたくさんいます。(しかし)まずいからというのはミルクを沸騰させるのに反対する唯一の理由でも主たる理由でもありません。『沸騰させて生じた」ミルクの皮膜を取り除いてしまうと、とても大事な栄養分を取り除くことになります。ですから沸騰させないよう、沸騰直前で止めるように、と料理人を説得しなさい」
殺菌を否定したわけではなく,煮立てれば不味くて栄養的にも劣ることになることを戒めたに過ぎない。
彼女は1910年に90歳の高齢で亡くなるまで,ずっと医療と関わって生きていた。その間に医学は,特に感染症の病原体との闘いで進歩し続けていたのだ。同時代の人々と同じように病原体の存在を自然に認めなかったとしたらむしろ不自然ではないだろうか。
ナイチンゲールの人生と活動はあまりにも劇的であり,波乱に満ちたものでした。今日の我々には想像もつかないような階級社会の頂点近くにいながら,貧困と病気にあえぐ人々に向き合い,異国で倒れる兵士たちのために献身した姿は,ランプを持って深夜の野戦病院をめぐる貴婦人の像に象徴される看護婦の理想像として後世に語り伝えられています。
しかし,彼女の生涯に関心をもつ作家や研究者たちは,他の面をナイチンゲールに見出しています。ひとつは統計学者としての姿です。イギリス社会の悲惨に目を向ける少女であった彼女は,理性の力でそれらに立ち向かおうとして,当時の統計学者として指導的な立場にあったケトレーに学び,交流し,統計的な衛生学の開拓者のファーとともにクリミア戦争の記録を分析し,その後もインドなど植民地の衛生にまで研究の手を広げています。その業績は近年になって日本でも評価されるようになってきました
ただし,それでもまだ謎が残ります。クリミア戦後のナイチンゲールは異常な集中力で報告書を書き上げたあと,精神的にも肉体的にもぼろぼろになって床に就きます。その虚脱をもたらしたのは何であったのか?
残された手紙や論文の分析から,思いがけない状況が彼女を襲ったことが推測されます。 それは人生最大の活動の場となったスクタリの野戦病院で自分がやったことが,実は兵士たちを 死から救っていなかったという発見に,自らの統計分析の結果として至ってしまったことです。
そのことの衝撃は想像するに余りあるものです。自らの情熱の行いが科学的には無効であった, しかも若い兵士の死をもって証明することになってしまったとしたら,だれがその後の人生に光を見て歩むことができるでしょうか。
もっとも,この部分については,断片的な資料にもとづく推定しかできていません。とはいえ,彼女の後半生がデータの分析に もとづく公衆衛生の実践に向いていったこと,時代を超える名著となった「看護覚え書」の度重なる改訂を行ったことは,十字架を負いながら人々のために闘う人生を彼女が選んだ深い動機を 説明するものと思われます。そのことに思いを馳せるとき,ナイチンゲールの真の偉大さと巨大さに打たれざるをえません。(了)