「創作」される科学記事

4月4日付の毎日新聞に,関西学院大学の下地博之助教らの研究グループによるアリの社会行動の研究の紹介記事が掲載された。この記事は同日夕刊にも掲載されている(スキャンした紙面は下に)。電子版に記事が出たのは10時13分,それを読んだのは14時半頃だ。

 

研究の内容は,アリの社会で女王と同じくメスの個体である働きアリが産卵しないのはなぜかを観察と実験で調べたというもので,行動としては働きアリ同士が互いに監視しあっており,実験的に産卵できる働きアリを作って巣に戻すと他の個体が産卵を妨害することが観察されたらしい。進化生態学的には,そういう行動をとるような遺伝子をもつ個体は(遺伝子レベルで)適応度が高いということだろうか。

アリをはじめとする社会性昆虫の研究は,自らは子孫を作らないで母である女王の産卵と育児を育てるワーカー(働きアリ・ハチ)の存在という逆説的な問題に,昔から関心が持たれている。基本,そういう観点で研究が紹介されるのが,正しい報道の仕方のはずだ。

ところが,記事を読んで目がつり上がってしまった。最後の段落はこうなっていた(実は電子版は書き換えられてしまったので,夕刊の紙面から引用)。

下地助教によると,仮に集団が小さい時に雄が生まれると,その雄は分業できずに全体の負担になるため,お互いの産卵を許さない仕組みが備わっているとみられるという。下地助教は「アリが,集団全体の利益を考えて社会を作っている証拠ではないか」と話す。【酒造唯】

これはおかしい。生物進化において,個体が他の個体を利するための行動を進化させることはないというのは,大きな原理のひとつである。進化はあくまで利己的に自分の子孫を,あるいはむしろ自分の持つ遺伝子を広げることで起きる。一見して逆説的に思える働きアリの自己犠牲的な行動であっても,自分の遺伝子を共有する妹や弟の個体を増やすと考えれば合理的な行動であることがわかる。

だからアリの個体が「集団全体の利益を考え」るなんて話はまったくデタラメなのだ。もっと言えば,当たり前のことだが,アリの脳は集団のことを考えられるほどの能力は持っていない。少しでも生物進化について勉強したことがあれば,この記事を読んだ途端に血圧が上がるはず。進化生態学の研究に従事している助教の方が,まさかのこの発言,あきれたものだと思ってしまった。そこでツイッターにこういうことを書き込んだのだ。

結びに唖然。俗流進化論を広めるつもりか?こんなふうに擬人化した説明を生物学者がやるとは!
下地助教は「アリが、集団全体の利益を考えて社会を作っている証拠ではないか」と話す

これを14時39分にツイートして,後は仕事をやったり,オーケストラの練習日なのでチェロを弾いたりして,夕方から練習に出て行った。帰ってからツイッターをチェックしたところ,下地さんから次のようなコメントが付いていた。

本人です。余計な煽りもなくリップサービスもなくただ淡々と現象の説明をしただけなんですが。そもそも記事の問題提起自体が間違っており、何をどう理解されたのか、理解に苦しみます。(Hiroyuki Sんimoji @shimoji_H 4月4日)

そして,記事の結びはというと,次のように変わっていた。

 下地助教によると、仮に集団が小さいときに雄が生まれると、その雄は分業できずに全体の負担になるため、お互いの産卵を許さない仕組みが備わっているとみられるという。【酒造唯】
少し気になるが,まあこれなら許容範囲だろう。この記事の最終更新は17時54分となっていて,何らかの形で訂正の力が働いたらしい。いずれにしても,記者が下地助教の発言としてカギカッコを付けて書いてしまったことは,許されることではない。印刷された紙面は変わらないし。
さて,別の時に酒造記者による科学系の記事を見た。そちらの方はいちおう穏当なもので常識は備えている人のようだ。それでも生物進化についての俗流の誤解をしてしまったことは,きわめて残念である。