軽い気体は上に上昇していくという話は,だれでも聞いたことがあるのではないでしょうか。たとえばなにかの事故でタンクから水素ガスが放出されても,屋外の大気に開放された場所ならガスは上空にどんどん行ってしまうので,比較的短い時間で引火・爆発の危険はなくなるとか,なんとなく聞き知っているのではないでしょうか。実は,それは正しい。放出された軽い水素ガスは速やかに上にのぼっていくのです。
ところが,別の現象も私たちは知っています。コロイド溶液に分散している粒子は沈んでいきません。あるいは空気中の細かい霧もエアロゾルと呼ばれて,一定の条件があれば沈降することはありません。朝霧が立ちこめた風景はなかなかよいものですが,その霧が消えるのは,温度が上昇して飽和蒸気圧が高くなった結果,表面から水が蒸発してしまうからです。
つまり,空気中になにかの粒が空中にあっても,重力で落下していかない状況がありえます。あるいは,水よりも比重が大きい粒子であっても,沈降しないでコロイド溶液ができることもあります。つまり,一見すると重力が働かないように見えるわけですね。なお,牛乳は脂肪粒がカゼインで保護された保護コロイド溶液とみなせますが,脂肪は水より軽いので重力の効果は向きが反対になり,塩分の添加などで保護コロイドをこわせば脂肪は上に集まります。
だったら,空気より軽い粒子にも重力が働かない状況が起きるのではないでしょうか?つまり,水素分子が空気中にあった場合でも,重力の影響を受けずにいてもおかしくないはずです。空気中の水素は軽いから上にのぼるのか,あるいは気体というスカスカの空間の中で下におちるのか?どちらの理屈もあるわけで,不思議な感じがします。
コロイド粒子はなぜ落ちも浮きもしないのか
ここで,だれもが聞いたことがあるコロイド溶液についてややくわしく考えてみましょう。コロイド粒子がブラウン運動をしていることは,高校で化学を勉強したことがある人なら知っているでしょう。もっとも,それがどういう意味を持っているのかは,とても重要で深い物理の問題なのですが,あまり強調されていないかもしれません(関心のある人は, ブラウン運動+アインシュタイン+原子論 で検索してみてください )。ざっというと,ブラウン運動の役割は,粒子が熱運動によってたえず拡散し続けることによって媒質中に分散しつづけることを可能にしていることにあるのです。
上の図は1個の粒子のブラウン運動のシミュレーション結果です。このように粒子は周囲の分子の衝突によってランダムに突き動かされています。なお,面白いことに,この移動距離の平均値は時間に比例するのではなくて,時間の平方根に比例します。
ブラウン運動は拡散の原動力
それでは多数の粒子を一点から出発させるとどういうことになるでしょうか?
上の図に多数の粒子にブラウン運動をさせたシミュレーションの結果を示しました。中央から広がっているのがわかりますが,さらに時間がたつともっと広がり,容器の縁から先には拡散できないので全体が均一な分布になります。それ以降は,個々の粒子のブラウン運動はあっても全体としては変化が見られなくなります。これを平衡状態といいます。
ブラウン運動は最後に平衡状態の分布に達する
ここまで説明してきたブラウン運動は,気体の分子でもほとんど同じことが言えます。ただし気体分子は非常にスカスカな空間を飛び回っているので,高速で直線運動している分子どうしが衝突しては向きを変えてランダムに飛び回っています。なおコロイド粒子のブラウン運動では,粘性による引きずりで運動がゆっくりになります。いずれにしても肝心なことは,顕微鏡で観察できるブラウン運動であれ気体の運動であれ,熱によって拡散して広がろうとするということです。そして最後の状態が平衡状態というわけです(熱力学的には,これは孤立系でエントロピーが増大して極大になった状態です)。
重力場の中ではどうなるのか
上のシミュレーションでは重力の存在を無視していて,粒子は同心円が拡大していくように広がっています。カップに1滴落とした牛乳が水平に広がっていく過程と言えます。しかし,粒子には重力が働いているのですから,エアロゾルや気体分子であれば,重力によって下に動こうとするはずです。一方,拡散はあくまでも粒子の分布を広げていこうとする運動です。その「兼ね合い」はどうなるのでしょうか。
重力による沈降と拡散による上昇が釣り合って平衡状態になる
空気中で分散しているエアロゾル粒子や,気体中の分子は重力によって下に落ちようとしています。その結果,下の方で濃い状態が作られることになるはずです。ところが,拡散は濃い方から薄い方へと分子が広がろうとする運動です。濃度の勾配を濃い方から薄い方へと移動しようとするわけです。重力は粒子を下へ移動させて粒子の濃度の勾配を急にする働きをもち,一方で,拡散による移動はそれに逆行した運動を優勢にします。結果,ある勾配が作られ,粒子の沈降と上昇が釣り合ったところで平衡状態に達するのです。これは,大気が上に行くと薄くなっている理由にもなっています。もちろん,私たちの身のまわりの範囲に限れば,上下の濃度勾配はほとんど存在せず,大気の圧力はどこでも同じとみなせます。
空気中の軽い分子も周辺に拡散するだけ。上にのぼっていくわけではない
以上の議論で分かるように,水素やヘリウムの分子を空気中に単独で置いた場合には,重力の効果は熱運動による拡散の効果に隠されてしまって,単に空気の分子の仲間として漂うだけになります。
どうしてもれた水素ガスは上にのぼっていくと言えるのか?
しかし,ちょっと待ってください。ここまでの議論からすると,事故で誤ってタンクから放出された軽い水素ガスは,浮力のために上空にのぼっていくことはないという結論になりそうです。ちまたで言われていることはウソなんでしょうか?ガスはただフラットに拡散するだけなのでしょうか。だとすると放出の後は拡散で薄まるのを待つだけになるので,爆発しない安全な濃度になるまでには時間がかかりそうです。そうではありません。
かたまりの気体には浮力がはたらく
なにかの気体が大気中に放出されたとしましょう。その気体はまわりの空気の分子の間でたがいに拡散しあっていきます。その結果十分な時間がたてば水素は大気中に拡散してしてしまいます。しかし,拡散が十分に進むまでにはかなりの時間がかかります。それまでは,水素ガスは空気の中の「軽い気体のかたまり」として振る舞うのです。風船に入っているような状況ですから,浮力が働いて上空に持ち上げられます。
ということで,水素が事故で放出された場合,その水素の「かたまり」は速やかに上空へと去ってしまうことになります。